美濃忠の歴史は、尾張徳川家の初代藩主である義直の時代に話が遡る。義直公が名古屋城入城の際に、駿河の国から随伴したのが「桔梗屋」という菓子店だった。
桔梗屋は尾張徳川家の御用菓子屋として繁栄を極める。幕末の安政元年(1854年)に暖簾分けを許されたのが、美濃忠初代となる伊藤忠兵衛であった。忠兵衛は、出身地である“美濃”と自らの名から一字をとって、店名を「美濃忠」としたようだ。
明治・大正には名古屋に美濃忠あり、と言われ、安定した商品力で顧客をつかんだのだとか。昭和になると三代目忠兵衛は茶人とのつながりを深くし、四代目、五代目で店舗を増やし、現在六代目と七代目(継承予定)が暖簾を守り、伝統の味を今に伝えている。
美濃忠の代表的な銘菓である「上り羊羹」は桔梗屋の商品であり、暖簾分けの店はほかにも多くあった。なのに、なぜ美濃忠だけに継承されたのか。その答えがわかる文献は残されていない。「きっと初代は桔梗屋の主人に信頼されていて、上り羊羹を作ることを許されたのではないか?」と七代目継承予定の伊藤裕司さんは想像している。
こしあんをゆっくりと蒸しあげることで生まれる上品でやさしい上り羊羹の口溶けは、江戸の昔から愛されてきた味なのだ。名古屋にやってきた旅人たちも、その味わいにきっと驚いて、もう一つと所望したのではないだろうか。そんな妄想を楽しみながら、今日も名古屋の和菓子を誇りに感じていたいと思う。
美濃忠の本店を西に向かって堀川を渡れば、見えてくるのが「円頓寺商店街」のアーケードだ。名古屋でもっとも古い商店街の一つとして知られている。
1970年代には隆盛を極め、映画館があったり、名古屋鉄道の駅があったりしたのだそう。その後、郊外の大型店舗ができるようになって人の流れが変わり、商店街はシャッター街へ、各店舗は後継者不足が大きな課題になった。
2000年代になると若手商業者を中心にまちづくり活動が始まる。地元を愛する人による地元のための活動が実を結び、2010年ごろからは名古屋でもっとも人気の高いエリアへと成長を遂げた。そして商店街に住む人が今も多いからか、町の表情が人懐っこいのがここの特徴だ。
「私が知っている円頓寺商店街は下町そのもの。今はいろいろなジャンルのモダンなお店がこぞってオープンしているけど、私にとっては普段着でぶらぶら歩く町」と美濃忠の伊藤さんが言うように、地図も見ないで美濃忠の紙袋をぶら下げながら、のんびり散歩をオススメしたい。
金比羅さんでお参りして、屋根神さまにご挨拶。肉屋さんのコロッケを頬張って、お酒が飲めるお店を探して路地裏をのぞいたら迷い込んで…。そんなゆったりした時間がよく似合う町だ。